2016/02/05

デイビッド・ルイス『フィクションの真理』の要旨


『フィクションの真理』では、架空の対象についての記述の真偽を判断できるような諸世界の範囲が考えられている。そのためマイノング主義→オペレーターの導入→語り手の導入→分析0→分析1→分析2というふうに徐々に考察する諸世界の範囲が絞られていく形で議論が進められる。

まずマイノング主義では、架空の対象と現実の対象を深く区別せずに真理を判断しようと試みる。しかし、架空の対象について、その前提が現実と異なるために、ある種の推論において真理を決定できなくなってしまう場合があるという問題が生じてしまう。

この困難を避けるために、架空の対象についての記述を「然々の物語において…」というオペレーターの省略形と見なすことが提案される。これによって、架空の対象についての記述を考える際、その前提をオペレーター付きの文に限定すれば、記述の真偽が結論づけられるようになる。

ただ、そのようなオペレーターに示される物語とはどういったものなのかという疑問が生じてしまう。一見すると物語とは、物語に沿った一連の出来事が生じている諸世界であると考えられるかもしれない。しかし、これは循環となってしまう恐れがある。なぜなら、物語に沿った一連の出来事が生じているとは、つまり、物語に出てくる架空の対象についての記述が真であるということにほかならないが、そもそもそのような記述の真偽を確かめるためにオペレーターを導入するのだから、オペレーターに記述が真であるという前提を持ち込んではならない。

また第2の問題として、物語の中では真でありながら、物語の筋が具現化しているような世界では偽であるような言明が存在するということも指摘されている。そうなってくると、オペレーターを導入したとしても架空の対象についての記述の真偽は決定できなくなってしまう。

この問題に対処するには、ある語り手によって個別的状況で語られるものとして考えるとよい。そして、語り手が物語がフィクションとして語られる諸世界に属しているのか、それとも物語がむしろ事実として語られる諸世界に属しているのかを区別し、後者の場合だけを考えれば、物語についての記述が真となるかを判断できるとされる。

こうして『フィクションの真理』は、「物語fにおいてΦ」といった形の文が真となるのは、fがフィクションとしてではなく、事実として語られるような全ての世界において、Φが真である時、勝つその時のみである、という分析0に至る。しかし、fが事実として語られるような全ての世界という条件があると、あまりにも多くの可能世界が考慮されねばならなくなり、フィクションにおいては、真となるものがあまりに少なくなってしまう。また一般的にはフィクションは事実を背景として読まれている。

そこで、フィクションにおける真理の言明を反事実的条件文として分析する、すなわち「物語fにおいてΦ」がトリヴィアルでなく真であるのは、fが事実として語られ、かつΦが真であるようなある世界が、fが事実として語られていながらΦが真でないようなどんな世界よりも、全体的に見て、我々の世界とより類似している時、かつその時のみである、という分析1に至る。この分析では、fが事実として語られる全ての世界を考えるわけではなくなったので、真となるΦが増えるように思われる。しかし今度は、フィクションを読む背景となる「我々の世界」というものがあまりに漠然としているので、激しい反論を呼ぶようなフィクションの登場人物の精神分析などを可能にしてしまう。


このような事態に中立であるために、『フィクションの真理』は、適切な背景をフィクションが最初に語られた時に一般に流布していた共同体の信念の総体から成ることに定める。そうすることで分析2に至る。





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